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フラワーエッセンスの植物研究ノート

フラワーエッセンスのもとになる花たちの観察記録・思ったこと

かぐや姫の内界の庭

フラワーエッセンスとアーキタイプ

高畑勲監督の「かぐや姫の物語」はここ数年見た映画の中では、私には強いインパクトをもたらした。

 

物語の筋通りに見れば、どうということがないのかもしれないが、8年という歳月をかけて、深く思索された上で作られた作品なので、その深さが伝わってくる。

 

 

高畑作品は原作に忠実に作られ、夢物語は作らず、原作にそって脚色をおこなうのが特徴である。

人生の現実的な局面で、困難や厳しさの中、どう主人公は生きているのかをみせることで強く共感させる。

 

まさかかぐや姫があんなに感情豊かで人間らしいお姫様になっているとは思わなかった。

 

震災のあった年にふと高畑監督が手掛けたテレビアニメの「赤毛のアン」のある場面を思い出したことがある。それはアンが最大に愛した一人であるマシュウが突然死して、悲しみに暮れ、日々をそのまま過ごしているうちにふと、友達の冗談に笑ってしまい、ハッとする。そこで、アンは牧師夫人であるアラン夫人に自分が笑ってしまったことに罪悪感を憶えたことを告白するシーンがある。

 

それを思い出して、原作の「赤毛のアン」を取り出して、その場面を探した。

しかし、それはどこにも書かれていなかった。

あまりにも自然に描かれていたので、原作にあったかと思ったけど、それは脚色だったのだ。

ところが子供向けのアニメにそのようなシーンをわざわざ入れる必要はあるのだろうか。

 

しかし、それは現実としておこりうることなのだ。

そうやって「死」というものを受容していくのだということを教えてくれる。

子供向けのアニメだからといって、夢物語にはしないのだ。

大人になってもそういう場面さえ思い出し、こころに残す力を高畑作品にはある。

 

「おもいでぽろぽろ」は私がまだ植物療法を全然やっていないときに見た作品だけど、あの映画をみて、田舎の自然というのは人の手が入って作られるものなのだということを知り、ずっと頭にそれがある。

先日テレビでまたやっていたので見てみたら、「百姓は自然からもらわないと生活できないので、自然に対してお返しをしていかないといけないのだ」みたいなセリフがあり、おお、まさに私がやりたいこと!と思った。

 

 

 

かぐや姫の物語」の中で強く印象的だったところはやはり・・木は死んでいないという場面。

自分のための祝宴で、外からのある会話を耳にし、猛烈な感情の高まりで飛び出していくかぐや姫

ぼろぼろになりながら、たどり着いた故郷の山は葉を落とした枯れ木のような姿で、それを見て、かぐや姫

山が死んだと思った。

ところがそこにいた炭焼き小屋のおじいさんが「いいや、死んでない」といって彼女に冬芽がついた枝を差し出す。そこでハッと祝宴の場所で目を覚ます。

それから彼女は変わるのだ。

 

 

そこに何がおこったのか。

 

 

このシーンはある場面を思い出す。

それは「ひみつの花園」でメアリがはじめてひみつの花園に足を踏み入れたときは冬だったので、庭にあるものは枯れてしまっているのだろうかと丹念に見ていく場面。

何年も誰も足を踏み入れていないのだから、枯れているのかもと思いながらも、実は新しい芽があることを発見する。

 

 

 

厳しい環境の中にいても、死ぬことはないということは植物は教えてくれる。

 

かぐや姫はその芽から、自らをコントロールすることを学び、希望の光をみたのだ。

 

山育ちのかぐや姫は自然の中にずっと帰りたかった。ハイジと同じように。

そして宮中での暮らしの中、自分の小さな庭を作る。

 

しかし、それもにせものにすぎないと思うようになる。

 

 

いつも帰っていく場所は故郷の山だった。

そこで子供の頃に遊んだ捨丸にいちゃんにも会う。

 

 

月では不浄なものはなく、悩みもなく、こころ穏やかなようだが、地球ではいろいろなことに感情は動き、生きているという実感がある。その中にはこの世界にいたくないと思うほどの強い感情もある。

そこを生きていくための知恵はこの作品の中には出てこないが、ヒントはある。

 

 

高畑監督が書いた『「竹取物語」とは何か』という長い企画書がある。そこまで竹取物語について考えていたとはというほどの内容だ。

その中の注釈でかぐや姫は「母性」と対極にあるもの「拒む性」「処女性」であることについて触れている。

 

ある意味今の若い人たちにもあてはまるような気がする。

 

高畑監督はかぐや姫の居場所のなさについても触れている。それはやはり現代にも置き換えられる。

 

居場所がないからこそ、内界の庭に帰っていくのだ。

それがなければ、やはり死んだも同じ。

ところが内界の庭は死んではいない。

 

 

ただ、それだけが希望なのだ。

 

結局は月へと帰っていくのだが、この物語では「うた」に希望をのせている。

地球のことは忘れても、なぜか記憶にあるうたというのは魂の記憶のコードのようだ。

私たちが何のためにこの地球に生まれてきたのか思い出しなさいというように。

 

「せんぐりいのちが、よみがえる」のだ。

 

 

何かそうやって根っこにつながり、大切なものを思い出すヒントにあふれた作品じゃないかと思う。

 

 

ちなみに、かぐや姫は竹という植物と関連している。

竹の花はめったに花を咲かせないけど、一斉に咲いたあとは株ごとすべて枯れてしまうそう。

竹取物語と竹という植物のアーキタイプの関連はよくわからないけど、イネの仲間にあたるので

生活にもかかせず、大地とともに生きることとつながるようには思う。

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