フラワーエッセンスの植物研究ノート

自然や植物とのつながり、フラワーエッセンスのことなど

高村智恵子とポメグラネイト

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このレポートはFESの認定の際に提出したレポートの一つである。

フラワーエッセンスの花をよく知られているキャラクターにたとえて

その花の本質を理解するためのもので、私はアメリカ人の2人に読んでもらうのに

あえて日本人をあげた。ずっと学生の頃から興味があった高村智恵子である。

特に公開してもいいかなと思い、ここに載せることにした。

なにかの参考になれば幸いである。私にとってはざくろの花と高村智恵子

ずっと関係が深いものだと思っていたので、私の見方には偏っているけれど。

 

 

高村智恵子とポムグラネイト」

 

高村智恵子は彫刻家で詩人の高村光太郎の妻であり、光太郎の詩集「智恵子抄」という本によって智恵子のことを知る日本人は多いことでしょう。

 彼女は芸術家、光太郎の妻として生きながら、彼女自身表現者で、芸術家である部分との葛藤が後に中年期以降、精神の病に冒されます。精神のバランスを失ってから、入院生活の中彼女は紙絵に出会い、芸術家として花開くことになります。

 

ポムグラネイトが女性としての創造的自己に意識を整合することを促し、自己の正しい運命と選択をより明確に見るのを可能にするという定義を知ったときから、智恵子とポムグラネイトがあわさるようになりました。彼女の創造のエネルギーはポムグラネイトの実のように大きく熟しながら、それを表現するための環境は整いにくい立場にありました。しかし彼女は芸術家の妻として支えることも大切なことだったのです。

 

 

智恵子は、1886年5月20日、福島県の裕福な酒造りの家の長女として生まれます。

 1903年福島高等女学校を抜群の成績で卒業後、東京の日本女子大学へ入学しました。当時の日本では女性にとって学問を学ぶことを勧めることもなく、中学卒あるいは小学生までしか行けない女性も多くいました。田舎ではなおさらのことです。日本での女子大学は1901年に初めて設立されたことから、かなり智恵子は日本の女性としては稀少な存在でもあったわけです。彼女は大学在中の頃から洋画家をめざしますが、女性の洋画家というのも日本ではほとんど存在しない時代でありました。

 

知人などの話から、無口でおとなしい面と大学時代にテニスや自転車などに熱中する活動的な面が彼女にはあったようです。しかし彼女の内面には常にやりたいことを貫き通す信念と情熱があったように思います。また当時の日本では20代の後半の未婚女性の場合オールドミスとして呼ばれるような時代であったために、親にすすめられた縁談を断りにくい状況にありました。しかし高村光太郎との愛をつらぬき、29歳で結婚しました。

 

 

光太郎と結婚後、彼女の人生は大きく変わっていきます。

 彼が芸術家であるがために極貧の生活を強いられ、妻としてやりくりし、夫を支えていかなければなりませんでした。

 光太郎が書かれた文章で以下のような記述があります。

 「彼女も私も同じような造型美術家なので、時間の使用についてなかなかむつかしいやりくりが必要であった。互いにその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の仕事が停頓してしまう。そういう日々もかなり重なり、結局やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず・・・(略)。」

 絵を描く作業というのはある程度のまとまった時間をかける必要があり、細切れの時間で創作活動をすることは不可能に近いものだと思います。そのため智恵子は後には織物やら粘土で彫刻をしたりと細切れの時間で出来る創作もので試したりしています。

彼女自身絵にたいする情熱は強かったために、描けないことにかなり悩んでいたようです。そして体調を除々にくずしていくのですが、湿性肋膜炎を30歳で患ってから、病気がちになります。34歳には子宮後屈症の手術を受けるのですが、子供がほしいと願ったのではないでしょうか。40をすぎても体調を崩していることが多く、貧乏生活もきわめて厳しかったようです。しかし彼女の精神のバランスを大きく崩したきっかけになったのは彼女の実家の経営状態が悪化し、破綻したことです。それまで体調が悪くても福島の実家に帰って田舎の空気に触れていると元気になって帰ってきたようですが、その健康のより所とする家もなくなることは大きな打撃だったかもしれません。

 

 そして更年期の症状とともに精神分裂病の症状が出始め、47歳のときに自殺未遂をします。その後精神状態はさらに悪化して、50歳以降は入院生活となります。53歳に結核のため亡くなりました。

 ポムグラネイトのフラワーエッセンスは仕事と家庭、創作活動と妊娠・出産、あるいは個人と目標の間に葛藤を感じる人に用います。智恵子が中年の危機に飲み込まれてしまったのはこうした葛藤の末のような気がします。なによりも自殺未遂をしたときに部屋には新しいキャンバスをかけて、描こうとしていたのであろう果物が並んでいたということは芸術への思いの強さが感じられます。

 

ポムグラネイトの赤い花は日本でも6月になるとあちらこちらで見られます。日本では鬼子母神の伝説が有名です。100人も子供がいる鬼子母神は人の子供を食べる悪癖があり、それを見かねたお釈迦様が鬼子母神の一番末っ子を隠してしまいました。鬼子母神は悲しみに暮れます。そこで子供を食べる代わりとしてポムグラネイトが与えられます。

 今では鬼子母神は安産、子宝の神様とされています。

 おもしろい偶然かもしれませんが、智恵子が長い間住んでいたところに鬼子母神の森というところが近くにあったそうです。

 

古代ギリシャやローマではポムグラネイトは非常に種子が多いことから豊饒のシンボルとされてきました。そのことは創造性と結びついていると思われます。

 また、ポムグラネイトの種子の透明な部分は甘酸っぱい液汁が多く、エストロゲンという女性ホルモンが含まれており、このエストロゲンは女性の性機能の発達と妊娠機能の維持をつかさどっているホルモンにあたります。女性は年齢とともに卵巣機能が衰えてくると、分泌されるエストロゲンの量も減少します。その結果更年期障害をひきおこす可能性があります。冷え、のぼせ、頭痛、精神障害など。更年期の女性でなくても、エストロゲンはストレスなどでうまく分泌されないことがありますが、その場合は生理前緊張症のように鬱やいらいらするなどの精神的な影響を及ぼしたり、出産直後にもエストロゲンを放出した後なので、マタニティブルーのように精神的に不安定な状態になりやすいことがあります。

 つまりエストロゲンは女性の心身のバランスを保つためのホルモンといえます。

 智恵子が創作活動と日常の家事との狭間におかれ、精神的な病気や更年期の症状をひきおこしたことから考えると、エストロゲンの減少があったことが考えられます。

 

ポムグラネイトは他に果物の中でも糖質をかなり多く含んでおり、枝皮にも冬場霜害や昆虫から身を守るための自己防衛力から糖質が増えるようです。糖を蓄えてエネルギー量が多いことも創造のエネルギーを蓄え、発揮することと重なるようにも思われます。

 

ポムグラネイトは少し明るい朱色の花を咲かせ、その花が終わると秋のはじめには少しずつ赤い大きな実を膨らませていきます。そのやわらかな色や丸みをおびた姿は女性らしさを感じます。智恵子もまた童女のような容貌で丸みを帯びた体をしていて、よく光太郎の彫刻のモデルにされていました。

 彼女は、正常な精神状態に戻ることはなかったのですが、精神を病むことによって解放されたのかもしれません。もう何も家事と創作の間で悩むこともなく、自分の創造性をフルに使うことが出来るようになったからです。それが彼女にとって紙絵だったわけです。小さな鋏を使って紙を切り抜き、色紙の上に貼り、色の構成を作り出す。その作業を体調のよい日は毎日のようにしていたそうです。その色遣いや芸術性は見事なものです。

 彼女の創造性の実はこのときようやく結実されたのかもしれません。

 

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