思春期のこころの闇と「思い出のマーニー」その2
この記事は2015年8月に書いたものです。
の続きです。
※「思い出のマーニー」を読んでいない、見ていないという方は
あまり解説的なものを読まずに
まず作品と触れたほうがよいかもしれません。
これは私が感じたことなので。
■マーニーの存在とアンナの内面世界
アンナが静養にきた場所は海のすぐそばで、入江があり、湿地地帯となっています。
イギリス、ノーフォーク州リトル・オヴァートーンというところです。
検索などすると場所の風景がわかります。
この入江の湿地は潮の満ち引きがあり、
引き潮だと陸地がすっかり見えるくらいになり、
満ち潮のときはみるみる湖のように変わる自然です。
この場所が物語の大きな魅力でもあり、舞台にもなっています。
これはアンナの動きやすいこころ(表面では考えないようにしている)でもあり、
乾いたアンナを満たす生命の癒しの水でもあるようです。
自然界に触れることによって、彼女の内面世界がゆるみます。
彼女はこの入江の向こう側に建つ大きなお屋敷を発見します。
この館の窓をみて、
「こんなにたくさんの窓がこちらを見ているのだから、
だれかに見張られているような気がしたのも無理はなかったのだ!」
と感じます。
この館の窓はアンナにとってはもうひとつの世界への入り口だったかもしれません。
そして、アンナはその窓の中にある少女の姿を見るのです。
それがマーニーでした。
ある晩、ついにマーニーと対面します。
彼女は幽霊を見たのかと思い、「本物の人間?」と尋ねます。
マーニーのほうも同じことを聞き、お互いに触って確かめます。
マーニーはアンナにとっての現実となります。ここでは。
二人は秘密の友達になります。
マーニーの境遇もお金持ちかもしれないけれど、とても孤独な少女だったのです。
二人はどんどん仲良くなっていきます。
夜中に出かけていったりして外で住民に発見されるようなことがありますが、
ペグ夫妻はとくに何もいいません。
アンナは叱られることを覚悟するのですが。
心配性のミセス・プレストンのような空気をかもしだすこともありません。
河合隼雄さんが「子どもの本を読む」の中でこの物語の解説をしていますが、
「老夫婦のペグさんたちは、今日の優秀な心理療法家がアンナに対して
するだろうと思えるのと同様のことをしたのである。」
「彼らはアンナを好きになり、できるかぎりアンナの自由を尊重し、
彼女の内面に触れようなどとは全然しなかったのである。」
「人間は他人のたましいを直接には癒すことができない。
それはいくら手を差しのべてもとどかない領域である。
われわれはたましいの方からこちらへ向かって生じてくる自然の動きを待つしかない。
しかし、そのためには、その人をまるごと好きになることと、
できるかぎりの自由を許すことが必要なのである。」
「子どもの本を読む」河合隼雄 岩波現代文庫
というようにアンナの内面世界が開いていくための器がそこでできてくるのです。
ここで、マーニーはアンナが作り上げた幻想の女の子という見方が主に考えられます。
アンナ自身も振り返ってそう思います。
実際はそうかもしれないけれど、
マーニーはアンナと実は関係のある人物だったのです。
このあたり、梨木香歩さんの「裏庭」を思い出します。
マーニーもアンナによって癒される。
アンナ自身の癒しだけではなく、
アンナの背後にある存在にもそれは含まれているのです。
作者のジョーン・G・ロビンソンもまた子ども時代とても孤独に過ごしていて、
親が厳しかったそうです。
彼女のエピソードがMOE2014年9月号の「思い出のマーニー」特集
に掲載されています。
夏休みになって、寄宿舎にいる彼女のもとに誰も迎えにこないので、
家に帰ると家政婦から「誰ですか?」と聞かれるという。
親も夏休みのことを忘れていたというエピソード。
こんなところに載っているのだから、よっぽどショックなことだったのでしょう。
アンナはマーニーの中に自分を、マーニーもアンナの中に自分をみているのです。
お互いに「あなたのことが今まで会った誰よりも大好き!」と言ったのは
誰にもこころを開くことが出来なかった少女が発した言葉です。
他者を受け入れ、自分を受け入れた瞬間なのです。
■思春期のこころの闇と光の存在
河合さんはマーニー抜きでこの話を見ると・・ということが書いていますが
精神的な病のある少女のように見えるわけです。
幻視をみているようなものですから。
私はこのお話がシャーマニズム的な見方もできるなと思います。
水というよりアストラルな場によって、もうひとつの世界への扉が開き、
時空を超えて、マーニーという自分にとってはガイドのような存在と出会う。
その中で様々な感情体験をし、肉体的に危機的な状況にまであう。
いわゆるイニシエーションとしての体験が
風車での裏切り体験となる。
決して許すことができない感情を味わいながら、
マーニーと対峙し、許すことによって鎖がほどかれる。
先住民族たちにとって、思春期は通過儀礼をおこなう時期でもあります。
現代人のイニシエーションは河合さんも書いていますが、
何度も機会が必要となります。1回だけで終わりません。
しかし、その機会というのは安全におこなえるだけのものが
今あるのかどうかわかりません。
思春期はとくにその内面の中のエネルギーは大きく、コントロールもできません。
闇の方向へと流れやすく、ダース・ベイダーのような世界へと行くこともあります。
ときに光よりも闇に惹かれることもあります。
女の子は生理がはじまり、より敏感にさまざまなものをキャッチしやすくなります。
アニメ「魔法少女まどかマギカ」で魔法少女になれるのは14歳の女の子に限っています。
エヴァンゲリオンもそのくらいの年の子供たちが主人公ですね。
彼らは大人と違って特別な力を使えるのです。しかも増大な。
そうしたエネルギーの強さを思うと、
アンナの体験はありうることかもしれないと思います。
そして、どうしてこころの闇を抱えているのに自然と癒され、
統合していくことができるのでしょうか。
それはすでに書いたアンナを自由にさせてくれるペグさん夫妻の支えと入江の湿地がもたらす豊かな自然の力があったからでしょう。
さらに私が思うのは、闇のベクトルに傾きやすいこの年代の子たちは、
それと同じくらいの光の存在が背後に控えているのではないか
と霊的な視点から推測します。
アストラル世界へと開かれやすいからこそ、危ない方向へも行きやすいのですが
、目には見えないそれこそアンナが目にした「善きものをしっかりつかめ」の
善きものもそこにあるのです。
河合さんは心と体と、それを越えその両者にかかわる第三領域の存在を仮定し、
「たましい」と呼んでいますが、そのたましいに関わる何かです。
私は中学生の時期のある日、少し不思議な体験をしました。
自分の部屋で真っ暗な中、
一人でいるとハートがみるみる満たされていくという経験です。
幸福感という感じ。
それまで、常にネガティブなことしか考えていなかったのに、
それを考えることができないくらい、幸福感が持続できるのです。
その状態は数日間続きました。いつの間にかなくなりましたが。
フラワーレメディーをもし使っていたら、こういうこともあるかもしれません。
しかし、何もせずただ、満たされることになったのです。
後で考えると、その頃の前後の記憶はありませんが、
危ない状態だったかもしれません。
だからこそ、光の存在によって守られたのではないか・・などと今になっては思うのです。
常に「善きもの」はそこにあるのです。
ただ、それに気づかないだけ。
イニシエーション的な経験をしたアンナは
マーニーと別れます。
実はここまでが物語の中盤までなんです。
お話はアンナにあらたな人物を送り込みます。
彼女にとっては現実世界への着地です。
現実の人間関係を育むことによって、
ようやく彼女は内側にはいった!!と感じることができたのです。
なるべくネタばれしすぎないように書きましたが、ぜひ、映画を見るか、
原作を読むかしていただければ理解が深まるかと思います。