フラワーエッセンスの植物研究ノート

自然や植物とのつながり、フラワーエッセンスのことなど

2024オンラインでのフラワーエッセンス関連の講座のご案内

 

 

春からフラワーエッセンス関連のオンライン講座がいくつかあります。

 

まずすでに始まってますが

動画なので5月末までならいつからでも開始可能な

フラワーエッセンス実践講座動画講座です。

innergardentiara.jimdofree.com

 

 

まったく初めての方から学べるようになっています。

セルフケアで自分のために使えるように毎月動画でテーマごとに

解説させていただいてます。



そして4/30には

単発の講座「誰かにフラワーエッセンスを伝えるための講座」

というのをやります。

 

innergardentiara.jimdofree.com

ニーズありますかね。。

知り合いに伝える場合とか知らない人に広めたい場合など
ケースに応じてこれまでの経験からお話させていただこうと思います。
これもオンラインです。

 


それから

5月から自分のための植物とつながる/植物のスピリットメディスンとともに

というWS形式の講座を季節ごとにやります。

5月のみの参加も可能。

www.innergardenflower.com

3/10までの期間、5月、6月分まとめてだと早割価格となります。

 

 

 

ぜひ、参加をお待ちしております♪

女性性の3つのアーキタイプと乙女

 

6/22にユリ科植物とフラワーエッセンス研究~女性性との取り組み~

 

www.innergardenflower.com

 

というオンライン講座をおこないます。

 

以前にも女性のためのフラワーレメディーという講座をおこないましたが

今回はユリ科のみの講座で

前半は植物学的なユリについて探求します。

日本のユリも17種類くらいご紹介します。

 

後半はFESのユリ科のフラワーエッセンスについて取り上げ、ご紹介します。

 

ユリ科のフラワーエッセンスのイメージがよくわからない

そもそもユリ科のフラワーエッセンスでどんな風に取り組めるのか?

 

という方にはオススメです。

 

が、わりとマニアックすぎるかしらね。。

 

アーキタイプについても取り上げたいと思ってます。

 

女性性についてのアーキタイプは大きくは3つあります。

 

乙女

母親

老賢女

 

 

この中で「乙女」の解釈が一番難しいんじゃないかと思われますが

 

アニメとかに出てくる女の子主人公は

わりと「乙女」のアーキタイプだったりします。

アニメはそもそも若年層向けなので。

 

キム・ハドソンの「新しい主人公の作り方」という本が

一番詳しい気がします。

新しい主人公の作り方 ─アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術

 

彼女は「ヒーロー」の反対としての「ヒロイン」ではなく、

女性性としての「ヒーロー」にあたる「ヴァージン」というアーキタイプで解説しています。

 

 

魔法少女もののアニメってそうかもしれません。

 

はじめは特に何もとりえがない普通の女の子が

ある日魔法を授かって、その魔法でいろんな人を助けていく

その中でいろいろ成長していくという。

 

 

ジャンヌ・ダルクとかも典型的な乙女のアーキタイプでしょう。

 

ノートルダム大聖堂ジャンヌ・ダルク

 

彼女の場合は成功はしたけれど

不幸な最後となってしまいました。

 

このアーキタイプには必ず光と影があることについても

本に書かれていて参考になります。

 

ジャンヌ・ダルクは彼女を恐れる人たちにとっては

影の象徴である「娼婦」や「魔女」になってしまうのです。

 

 

そしてそれぞれにユリ科のフラワーエッセンスについても考えてみるのですが

なかなか面白い。

 

それがある意味定義の調和がとれていない性質と調和がとれている性質に重なってくるからです。

 

 

さらにユリはバラよりも好き嫌いが若干わかれます。

 

おしべの主張が強く感じるのか

香りが強すぎるのか

 

これも興味深いところです。

 

 

女性性というテーマについて考えるときも

アーキタイプとそれぞれの影ということについて考えていくと

いろいろなヒントが見えてくる気がします。

 

 

講座は6/19まで受付します。

 

日程あわない方は後半部のみ録画受講もありで考えたりしてますが

受けたい方いるかしら。

心理療法とシャーマニズム

心理療法とシャーマニズム

 

この記事は2015年1月に書かれたものです。

 

最近、「心理療法シャーマニズム」という本を読んだので、

ちょっと自分なりに考察したことも含めて感想など書きたいと思います。

この本、前からちょっと気になってて、古本は高値がついてたので、

図書館検索したら高松の図書館にありました!!

なんかマニア向けなにおいのする本なのに・・。
ということで読むことができました。
ちょっと長くて引くかもしれませんが(^^;)、

それでも相当はしょって気になったところだけにしましたので、

よろしかったら読んでみてください。


★著者である井上亮さんのこと

実は知りませんでした。

はじめ、タイトルからスピリチュアル系な本なのでは??と思ったりしていましたが、

かなり真面目な心理療法家として書かれた本でした。
しかし、このタイトルで一冊の本にまとめたのではなく、

井上さんがこれまで書かれたいろんな文章や論文をまとめた一冊となっています。
これはすでに井上さんは亡くなられているのですが、

亡くなられてからまとめられたのではないかと思います。
そのため貴重な北カメルーンのシャーマンたちの調査について読むことが出来るのです。

井上さんは心理療法家として精神的に複雑な病にあるケースをたくさんあつかわれていたようで、その仕事の中で、自分がやっている療法の限界のようなものを感じていたか、新たな別の見方を模索していたようでもあります。
井上さんがカメルーンへ一年間呪医たちへの調査へと向かったのは1989年のことです。
80年代ころはとくに境界例の患者さんたちも多かったのではないでしょうか。


彼はアフリカの地で、呪医のインタビューのお礼として占いをしてもらってお金を支払っていたのですが、7人くらい見てもらったところすべて、

「日本に帰ったら、あなたは死ぬ」と言われ、

自分なりに「占いをひっくりかえす法」というのを実行してみることにして、

それがひっくりかえったそうです。
そして確かに、日本に帰ってすぐに亡くなることはなかったのですが、

10年くらいたった2002年に亡くなられていました。

これはやはり呪医の言うとおりだったのかどうか・・。
わかりかねますが、彼がカメルーンで夢見をして、

イニシエーションを受けた後、おこなう療法はどのように変わったのか

ちょっと知りたかったなあと思います。



この本の中では呪医から実際にイニシエーションを受けて、夢見をおこなう内容が書かれてあったり、他のシャーマンの調査での考察とかいろいろあるのですが、すべて心理療法家から見たり、感じたこととしての内容になっているところが一番興味深かったです。


★アフリカ、カメルーンの呪医の治療について

ほとんど知らなかったのですが、

井上さんが調査されていた頃はまだアフリカのその土地はシャーマニズムがいきづいており、呪医が治療をおこなっています。
カメルーンのアマダワ地方、北部地方、極北地方で調査はおこなわれています。

シャーマンの役割は今でいう医者と心理療法家の両方を含むような役割になるかと思いますが、沖縄のユタがいるような場所でもあるように何かに取りつかれたような精神的におかしくなることでやってくるケースが多いというのが特徴のようです。
それはその土地のシャーマニズムが生きているところに住んでいる人ならではなのかもしれません。
よく悪魔祓いで専門の教会にやってくる人もたくさんいますが、日本ではほとんどありえないように、キリスト教社会で悪魔という発想が生きている地域や集団ではありうるのかもしれないです。

カメルーンではギンナージという精霊が患者にとりつくことが原因だとされていて、
呪医はそれを夢の中で、ギンナージと話し、どうしたらいいのか、どんな薬を与えたらよいのか、どうしてその人の中に入ったのかなど聞き、翌日、その薬草をとってきて患者に与えるそうです。
悪い人なのに、治療方法を教えてもらえるというのは不思議なものですが。
このあたりでは、交通事故をおこしても、ギンナージの仕業とされていて、その土地の人はすべてそれを信じ切っています。ここは大きなポイントです。
だから、ギンナージと対話して治療する呪医に力が得られるのです。
それでも、もっと昔のほうがいろいろなことが出来たとか。

阿部知二さんの「火の鳥 ジャワ・バリ島の記」という古い本を私は持っていて、第二次世界大戦時くらいのインドネシアの土地に阿部さんがいたときの体験記です。
この本ではその頃のアストラルが強烈だったインドネシアの空気感があり、阿部さんが聞いた呪術によって殺されそうになった人の話がのっていました。
後で人型のものが布団に縫い付けられているのを発見するわけですが、のろいで人を病気にさせることが本当にできたのはそうとうな力が働いているといえます。

このあたり、呪医のみだけではなく、その土地に住む人々全体がもっている共通した世界観がよりそうした治療を可能にしているところもあると思います。
もちろんそうでなくても、治療は可能だとは思いますが。


★プロテクションと生贄について

ちょっと療法家らしい井上さんの着目点があるのですが、呪医たちはプロテクションを非常に重要視しています。アストラルの世界では自分も命取りになるので当然なのですが、
これは患者を含めた治療状況全体のプロテクトであることに注目します。
当然、現代の心理療法の過程でもこのプロテクトのために枠組みがあったり、スーパービジョンがあったりするわけですが、このプロテクションの発想を持たなさすぎかもしれないと井上さんは書いています。

あと生贄として動物の血を与えることになっていますが、(肉はみんなでいただく)ここでの生贄の意味は病気を治すことは何らかのバランスを変える行為であるとみなし、それをおこなった呪医にかかりやすいということもあるし、呪医の力が強くても、まわりの家族などに降りかかることもある。それをバランスさせるために動物を生贄として、バランスを修正するという考えだそうです。
これも現代では生贄はありえないけど、病気の家族が治ったり、病気になったりというのは家族全体のバランスの崩れにもなりうることを書いています。


★井上さんのイニシエーション

井上さん自身が呪医にインタビューをしながらも、やはり実際に自分が受けて見ないと理解は出来ないということで数人の呪医に弟子入りをして、修行をおこなう過程をとても詳しく書かれています。
またも、心理療法家らしいのですが、自分の夢の記録(イニシエーションの前後)と解釈が書かれてあるのです。帰還の頃は宇宙までいってなかなか帰れないという夢をみていたり、日本に帰ってからもまださまよっていたりで、帰還プロセスの夢は半年ほどかかったそうです。これはけっこうあると思います。
これほどの経験ではありませんが、1週間ぐらいリトリートへ行ってから帰ってきていても、実はまだ帰ってきていない(たましいが)ということは案外あるからです。

心理療法とイニシエーションというとユング派の本でもあるし、河合隼雄さんも書かれています。イニシエーション(次の段階への移行)となるような夢をみたり、そうした象徴があらわれたり。このあたり井上さんの「治療者としてのイニシエーションと宗教的なイニシエーション」という論文にいろいろ書かれています。

あと「シャーマニズムと癒し」という論文も非常に面白かったです。
沖縄のユタの治療に立ち会って考察されていることですが、
枠組みの問題を指摘していました。
普通にシャーマニズムに興味がある方はあまり思わないことだろうと思いますが、
療法家にとって枠組みは重要なのに、ユタの治療は8時間にもおよび、自宅にいつ来てもいいことになっているだけでなく、ユタ自身の個人史まで語るというまったく現代の心理療法と違うことをしているのに驚かれます。

これはシャーマニズムの世界では儀式を別として、時間や空間が存在しないことをあらわします。このあたりの考察も面白かったです。


最初のほうに書きましたが、井上さんが治療について悩まれていた頃は
境界例がもっとも多い時期のようですが、
最相葉月さんの「セラピスト」によると
今、境界例や対人恐怖というのは非常に少なくなっているそうです。
精神的な病は時代とともに、社会の変化とともに変わっていくものでもあります。

いま、社会でおこっている出来事や事件にも反映し、
水瓶座時代の影響が強くなってくると人の傾向も変化していきます。
それにあわせて癒しの場にいる人たちもずっと同じことをやるのではなく、
あわせて変化していかなければならないでしょうね。

カメルーンの夢見はプラントメディスンにもに似ているところがあります。
夢の中で精霊にあって(この場合はギンナージという病気の原因になっている精霊のみ。プラントメディスンだと植物そのものの精霊に会う)、どんなことをしたらいいのか、どんな植物を与えたらよいのか聞くことと、実際その精霊とコンタクトをとるには恐怖を克服しなければならないというところです。
アストラルではハートの力がとても作用します。
そのためにこわいと思っているものを克服する、あるいは何か恐れを越えて勝ち取るということがつきものでもあります。
そのあたりのお話も興味深いものでした。



 

思春期のこころの闇と「思い出のマーニー」その2

思い出のマーニー 上 (岩波少年文庫)

 

この記事は2015年8月に書いたものです。


plantessence.hatenablog.jp

の続きです。

※「思い出のマーニー」を読んでいない、見ていないという方は

あまり解説的なものを読まずに
まず作品と触れたほうがよいかもしれません。
これは私が感じたことなので。


■マーニーの存在とアンナの内面世界

アンナが静養にきた場所は海のすぐそばで、入江があり、湿地地帯となっています。
イギリス、ノーフォーク州リトル・オヴァートーンというところです。

検索などすると場所の風景がわかります。
この入江の湿地は潮の満ち引きがあり、

引き潮だと陸地がすっかり見えるくらいになり、
満ち潮のときはみるみる湖のように変わる自然です。
この場所が物語の大きな魅力でもあり、舞台にもなっています。

これはアンナの動きやすいこころ(表面では考えないようにしている)でもあり、
乾いたアンナを満たす生命の癒しの水でもあるようです。

自然界に触れることによって、彼女の内面世界がゆるみます。


彼女はこの入江の向こう側に建つ大きなお屋敷を発見します。

この館の窓をみて、
「こんなにたくさんの窓がこちらを見ているのだから、
だれかに見張られているような気がしたのも無理はなかったのだ!」

と感じます。

この館の窓はアンナにとってはもうひとつの世界への入り口だったかもしれません。

そして、アンナはその窓の中にある少女の姿を見るのです。

それがマーニーでした。
ある晩、ついにマーニーと対面します。

彼女は幽霊を見たのかと思い、「本物の人間?」と尋ねます。
マーニーのほうも同じことを聞き、お互いに触って確かめます。

マーニーはアンナにとっての現実となります。ここでは。

二人は秘密の友達になります。

マーニーの境遇もお金持ちかもしれないけれど、とても孤独な少女だったのです。

二人はどんどん仲良くなっていきます。

夜中に出かけていったりして外で住民に発見されるようなことがありますが、
ペグ夫妻はとくに何もいいません。
アンナは叱られることを覚悟するのですが。
心配性のミセス・プレストンのような空気をかもしだすこともありません。


河合隼雄さんが「子どもの本を読む」の中でこの物語の解説をしていますが、

「老夫婦のペグさんたちは、今日の優秀な心理療法家がアンナに対して
するだろうと思えるのと同様のことをしたのである。」

「彼らはアンナを好きになり、できるかぎりアンナの自由を尊重し、
彼女の内面に触れようなどとは全然しなかったのである。」

「人間は他人のたましいを直接には癒すことができない。
それはいくら手を差しのべてもとどかない領域である。
われわれはたましいの方からこちらへ向かって生じてくる自然の動きを待つしかない。
しかし、そのためには、その人をまるごと好きになることと、
できるかぎりの自由を許すことが必要なのである。」

「子どもの本を読む」河合隼雄 岩波現代文庫

というようにアンナの内面世界が開いていくための器がそこでできてくるのです。


ここで、マーニーはアンナが作り上げた幻想の女の子という見方が主に考えられます。
アンナ自身も振り返ってそう思います。

実際はそうかもしれないけれど、

マーニーはアンナと実は関係のある人物だったのです。

このあたり、梨木香歩さんの「裏庭」を思い出します。
マーニーもアンナによって癒される。
アンナ自身の癒しだけではなく、

アンナの背後にある存在にもそれは含まれているのです。


作者のジョーン・G・ロビンソンもまた子ども時代とても孤独に過ごしていて、
親が厳しかったそうです。
彼女のエピソードがMOE2014年9月号の「思い出のマーニー」特集

に掲載されています。
夏休みになって、寄宿舎にいる彼女のもとに誰も迎えにこないので、
家に帰ると家政婦から「誰ですか?」と聞かれるという。
親も夏休みのことを忘れていたというエピソード。
こんなところに載っているのだから、よっぽどショックなことだったのでしょう。


アンナはマーニーの中に自分を、マーニーもアンナの中に自分をみているのです。

お互いに「あなたのことが今まで会った誰よりも大好き!」と言ったのは

誰にもこころを開くことが出来なかった少女が発した言葉です。

他者を受け入れ、自分を受け入れた瞬間なのです。



■思春期のこころの闇と光の存在

河合さんはマーニー抜きでこの話を見ると・・ということが書いていますが
精神的な病のある少女のように見えるわけです。

幻視をみているようなものですから。

私はこのお話がシャーマニズム的な見方もできるなと思います。
水というよりアストラルな場によって、もうひとつの世界への扉が開き、
時空を超えて、マーニーという自分にとってはガイドのような存在と出会う。
その中で様々な感情体験をし、肉体的に危機的な状況にまであう。
いわゆるイニシエーションとしての体験が
風車での裏切り体験となる。

決して許すことができない感情を味わいながら、
マーニーと対峙し、許すことによって鎖がほどかれる。


先住民族たちにとって、思春期は通過儀礼をおこなう時期でもあります。
現代人のイニシエーションは河合さんも書いていますが、
何度も機会が必要となります。1回だけで終わりません。
しかし、その機会というのは安全におこなえるだけのものが
今あるのかどうかわかりません。

思春期はとくにその内面の中のエネルギーは大きく、コントロールもできません。
闇の方向へと流れやすく、ダース・ベイダーのような世界へと行くこともあります。
ときに光よりも闇に惹かれることもあります。

女の子は生理がはじまり、より敏感にさまざまなものをキャッチしやすくなります。

アニメ「魔法少女まどかマギカ」で魔法少女になれるのは14歳の女の子に限っています。
エヴァンゲリオンもそのくらいの年の子供たちが主人公ですね。
彼らは大人と違って特別な力を使えるのです。しかも増大な。

そうしたエネルギーの強さを思うと、

アンナの体験はありうることかもしれないと思います。

そして、どうしてこころの闇を抱えているのに自然と癒され、
統合していくことができるのでしょうか。


それはすでに書いたアンナを自由にさせてくれるペグさん夫妻の支えと入江の湿地がもたらす豊かな自然の力があったからでしょう。

さらに私が思うのは、闇のベクトルに傾きやすいこの年代の子たちは、
それと同じくらいの光の存在が背後に控えているのではないか
と霊的な視点から推測します。

アストラル世界へと開かれやすいからこそ、危ない方向へも行きやすいのですが
、目には見えないそれこそアンナが目にした「善きものをしっかりつかめ」の
善きものもそこにあるのです。

河合さんは心と体と、それを越えその両者にかかわる第三領域の存在を仮定し、
「たましい」と呼んでいますが、そのたましいに関わる何かです。


私は中学生の時期のある日、少し不思議な体験をしました。
自分の部屋で真っ暗な中、
一人でいるとハートがみるみる満たされていくという経験です。
幸福感という感じ。
それまで、常にネガティブなことしか考えていなかったのに、
それを考えることができないくらい、幸福感が持続できるのです。
その状態は数日間続きました。いつの間にかなくなりましたが。
フラワーレメディーをもし使っていたら、こういうこともあるかもしれません。
しかし、何もせずただ、満たされることになったのです。

後で考えると、その頃の前後の記憶はありませんが、
危ない状態だったかもしれません。
だからこそ、光の存在によって守られたのではないか・・などと今になっては思うのです。

常に「善きもの」はそこにあるのです。
ただ、それに気づかないだけ。


イニシエーション的な経験をしたアンナは
マーニーと別れます。

実はここまでが物語の中盤までなんです。

お話はアンナにあらたな人物を送り込みます。
彼女にとっては現実世界への着地です。

現実の人間関係を育むことによって、
ようやく彼女は内側にはいった!!と感じることができたのです。


なるべくネタばれしすぎないように書きましたが、ぜひ、映画を見るか、
原作を読むかしていただければ理解が深まるかと思います。






思春期のこころの闇と「思い出のマーニー」その1

思い出のマーニー (新潮文庫)

 

 

この記事は2015年8月に書いたものです。

 

ジョーン・G・ロビンソンの「思い出のマーニー」を読みました。

先にジブリのアニメのほうを見てから原作を。
このお話はとても不思議なお話です。

ファンタジーのようでありながら、現実とからみあっています。

確かに、宮崎駿さんがこの話をアニメ映画にするのは
とても難しいとおっしゃっていたことがわかります。
また、この映画は主人公の内面世界として見ると感動できるのですが、
そのままで見てしまうと、拒絶反応というか、わかりにくい世界になってしまいます。
なので、多くの批判的な意見が飛び交っているのを読み、とても残念に思います。

これは映画のキャッチコピーである「あなたのことが大好き」という言葉が
誤解されやすいなあと思いました。
だから、百合系の女の子同士の話??と思われてしまうのですね。
ジブリというブランドは非常に影響力が強いので、言葉の使い方は難しい・・。

この「あなたのことが大好き」というのは原作では
ものすごく重要なセリフです。


■思春期の内面世界


主人公のアンナは原作設定では12、3歳くらいかと思います。
孤児で、施設から里親にもらわれて生活しています。
彼女と里親との関係は悪くはないけれど、

アンナは心を開くことができません。
いつも見えない魔法の輪の外側に自分はいるのだと思っています。

つまり、どこにも属さない、居場所がないと感じているのです。
そしてなるべく関わらないようにつまらなそうな顔をわざとします。
頑張ることもしようとしません。


先日、借りていた本の中で日本人の意識調査ですが、
小学生のときは自分のことが好きかという質問に過半数が肯定的なのに対し、
中学生になるとかなり減り、

自分がまわりにどう思われているのか気になる人が

増加しているということが書かれていました。

中学生くらいの年齢はまわりの世界と自分との関係が気になり、
自意識過剰になりがちで、自分に対して、

ネガティブな意識を持ちやすい傾向になります。


この原作の話に触れた時、自分の中学時代のことを思い出しました。

人生の中でもっとも魂が危機的状態だったなあと。
それは自分だけではなく、まわりもそうだった。
私が中学のときは非常に荒れた時代で、

積木くずし」というドラマもありましたが、
私が通っていた中学はその中でも一、二を争うほど、県内で荒れていた中学でした。
クラスには必ず不良グループがいて、よく窓ガラスも割れていて、
鑑別所にいるというクラスメイトもいたり。

校則も非常に厳しく、まだ教師による体罰がおこなわれていた時代です。
朝礼で並び、女子生徒のスカーフがセーラー服の裾から何センチと決まっていて、
ものさしで計るような世界。

小学生のときに仲がよかった子がよそのクラスだったけど、
こわいほどの拒食症になって痩せこけてて、
遠足でかっぱえびせんをひとつ渡したら、それすらも食べられない状態をみて
まわりの子たちといっしょにショックを受けました。

とはいっても自分も摂食障害があり、一年くらい生理もなく、
親戚からも食べろ、食べろと言われたこともあります。
自分も余裕はまるでありませんでした。

そんな危機的状態をいったいみんなどうやって切り抜けたのだろう・・・。

そんなことを思い出させてくれる話でした。


いま、2学期がはじまるときにもっとも中学生の自殺が多いと言われています。
また、先日も中学生の子が夜中から出歩き、殺されるという事件もありました。


問題児ならともかく、

アンナのように問題がないとされる女の子の内面は
大人からするととてもわかりにくいです。
子どもでも大人でもなく、不安定になりやすく
かといって、何かが問題という意識もなく、助けを求めることはありません。

この時期の子どもは自分から自然の中へ

癒しを求めるということはあまりありません。
自分のことを考えると、

自分が住んでいるところは田舎だという意識が強かったので、
田舎や自然のあるところに興味はなく、むしろ、都会に興味がありました。

アンナの場合も自分から行くことはなく、

喘息があるため、医師の勧めで
イギリスのノーフォーク州の湿地地帯の田舎へと行くことになります。

アンナの里親のミセス・プレストンは世話焼きな心配性の方です。
だからこそ、アンナは「やめてくれればいいのに」という気持ちが出てしまいます。

中学生くらいって親の干渉がもっとも疎ましい時期です。

しかし、親も教師も干渉しがち。

エドワード・バックはこんな風に書いてます。

「親は、子どもが自分のことをうまく一人でできるようになるにつれて、徐々に管理するのをやめ、その後は親に対する遠慮や間違った義務感が子どもの魂からの指示を阻むことのないよう注意しなければなりません。」


エドワード・バッチ著作集」BABジャパンより

まわりの大人がこの年代の子供たちにどのように接するかが
より闇を濃くするか、自然な働きで

闇と光を統合していくかの分かれ目になるようにも思われます。

また、干渉しないことと放任とは違います。

子供たちが家出することが多いというのは難しいところです。


アンナはペグ夫妻のところに行くことになり、ノーフォークの田舎ですごします。
このペグ夫妻はいい具合にアンナをほおっておいてくれます。

だから、マーニーという少女と出会い、毎日のように出歩き、
夜中に出かけることさえあり、
何度か外で倒れてたり、座り込んでいるところをよその住民に発見されます。

今だと犯罪にまきこまれててもおかしくない状況です。

幸い、この小説の時代はのんびりしていたかもしれません。

今は自由に田舎でさえ夜中に女の子が歩き回れるような時代ではありません。

そうすると、中学生ってほんと行き場がないなあと思います。
家では親が干渉してくるし。

「夫人はいつも優しいのだが、どうしようもない心配性でもあった。ああ、もし、ときどき何の理由もなく、あるいはたいした理由もなく、好きなだけ自分が泣いても黙って見ていてくれる人がいたら、どんなにいいだろう。」

アンナのこころの中です。
泣いている場合、人に心配されたいという理由で泣いていることもありますが、
誰にも声をかけてほしくない場合もあります。


そういうことで、ネット世界に自分の世界を作っていく傾向にあるのかもしれません。

私の場合は中学生のとき、どこに癒しを求めていたかというと
漫画やアニメ、物語の世界だったなあと思います。
いまの中学生もそうかなと思うけど。
こうしたものは今や大切な要素でしょう。


長くなってしまうので、続きます。


その2以降は
・マーニーの存在とアンナの内的世界
・思春期のこころの闇と光の存在

について書きます。

「インターステラー」と「コンタクト」とハウンズタング

 

インターステラー(字幕版)

 

※この記事は2015年1月に書いたものです。

 

年末に見に行った映画「インターステラー」を見たら、
昔見た「コンタクト」という映画が見たくなり、
お正月に久しぶりに見ました。

 

コンタクト 特別版 [DVD]



この映画は1997年の作品なんですね。
電話がダイヤル式だし、パソコンモニターがでかい(笑)
しかし、「インターステラー」を見た後にみると
またすごく面白かったです。

「コンタクト」の内容をかいつまんで書くと
ジョディ・フォスター演じる主人公エリーは子供の頃から
父親といっしょに無線で遠くの存在と話すことをやっていて、
その父親が亡くなり、大人になって研究者となります。
電波通信によって地球外生命とコンタクトをとろうとして
長年研究してきたエリーはどこでも批判的な扱いを受けますが、
彼女は実は見えない存在や実証できないものを信じない女性だったのです。

その彼女が牧師であり、作家である男性パーマーと知り合い、
愛し合うのですが、

ひとりは神を信じ、エリーは神を信じないという
皮肉なカップル。


ある日エリーはヴェガのあたりからある交信をキャッチし、
宇宙へ行くことを志願します。
いろいろあって、なんとか行くことになりますが、
彼女はすぐにワームホールを抜けて宇宙へ行く経験をしたのにも
かかわらず、実際は実験は失敗に終わっていたことを告げられます。
しかし、彼女は証拠がないのにもかかわらず、
それをどうしても否定することが出来ず、その経験によって
大きく変わったのでした。


映画として非常によくできた作品です。
どういう経験をしたかは映画を見てください。

このパーマー役のマシュー・マコノヒーがなんと17年後に
インターステラー」で主人公を演じるわけです。
「コンタクト」に関わった物理学者のキップ・ソーンの案によって
インターステラー」は制作されたそうですが、
最初はスピルバーグが監督予定だったのですね。
(ウィキペディア参考)

なので、少し共通するものがこの二つの映画にはあります。

「父親」
「宇宙の存在」
「時間感覚」

エリーは
「私たちは宇宙の一部です。宇宙と一体になれば孤独でなくなります」
というようなセリフを言います。
つながることは時間を超えることでもあるなあと思います。

この二つの映画をみて思うのは
宇宙というとてつもなく大きなものに想いを向けると
視点が大きく変われるということです。
しかも、それがワームホールをとおしていくつもの銀河につながっている
としたら、ほんとに小さな地球で暮らす私たちは
とても小さな存在です。

FESのフラワーエッセンスにハウンズタングという花があります。
ムラサキ科の植物で少し忘れな草に似た花です。
「コンタクト」という映画は特に全体をとおして
この花を象徴として思わせてくれます。

世界を科学的すぎる視点で見る傾向があるときに
思考をもっと全体的な視野で高い意識からみることを助けます。

「フラワーエッセンスレパートリー」BABジャパンより

思考活動を刺激し活性を与え、生への驚きと畏敬を回復させ、
同時に魂が物質世界の精神的次元について明晰で
具体的に思考するのを助けてくれる。

 



すべての人が宇宙まで行くことが出来ませんが、
花の中に宇宙意識を目覚めさせるものが
あるというのも不思議なものです。

これもエッセンスの作り手がそのような意識を持っていないと
ハウンズタングの定義とならなかったかもしれません。

ハウンズタングは地味であまり選ばれにくいエッセンスかもしれませんが、
小さな自分の世界の中でとても生きにくく感じていたり、
感情的な問題で抜けられない感じのときにも
使えるのではないかと思います。
思考をリニューアルするように。
宇宙から地球をみるように。



写真は同じムラサキ科のボラージュ。
花の形も星のような形をしています。
ハウンズタングはボラージュと組み合わせることもできます。
重く感じて行き詰った感覚から解放してくれます。



逆な感じでFESにはシューティングスターという花もあります。
これはまさに流れ星なので、
地球にたどり着いた魂のためのエッセンスです。
このタイプの人は逆に地球になじめず宇宙に帰りたがります。
しかし、この地球で生まれたことには意味があり、
それを知ることで地球に根付くことを意識します。

日本の花にも宇宙に関連するようなものがあるでしょうか。


この二つの映画を見るとハウンズタングのように視点が
大きくなるので、映画セラピーにもなるかもしれません(笑)

神戸・布引ハーブ園

 

植物園シリーズ、神戸の布引ハーブ園です。

私はここができたばかりの頃に最初行ったかも。

いろいろ変化していって、今は随分いろいろ充実した施設になりましたね。

ほぼ神戸の観光地のひとつでもあるし。

 

新幹線で新神戸駅からすぐにロープウェイ乗り場まで行けるので

アクセスはかなりいいと思います。

www.kobeherb.com

 

 

入場料も高いですが、その分庭の手入れはかなりよくされています。

ロープウェイ代が入るから高いのか。

でもレストランとかも高め設定かな。

 

まあ、眺めは神戸の街も一望できるのでものすごくいいです。

 

最後に行ったのは2019年の6月です。

 

 

構造としてはロープウェイで上まで上がって

だんだん下りながらいろんなガーデンを見ていくようになります。

なので真夏は坂を下ったり、上がったりするとまあまあきついかもしれません。

基本はハーブ園なのでいろいろなハーブが見られます。

そんなに広くはなかったかな。

フラワーエッセンスと関連するハーブもいくつかはありました。

チコリとかブラックベリーとかラベンダー、ディル、ボラージュ、カモミールなど。

 

こんな感じで札があって。

 

マロウの花

 

クラリセージの花。

 

イメージ的な部屋や香りをいろいろ嗅げるコーナーもあり。

 

ポタジェコーナー。いろいろなお野菜の植物が植えられています。

 

イングリッシュガーデンっぽいお庭。

 

街が見下ろせる休憩スペース。横のほうには足浴できるところもありました。

6月は紫陽花もとても綺麗でした。

 

下のほうは広々しててハンモックがいくつかありますが、

ハンモックは木陰じゃないので直射日光直撃だから夏はちょっと厳しいかな。。

春や秋は気持ちいいと思います。

 

上に戻るとローズガーデンもあります。

 

テーブルもかわいく飾り付けされています。

香りの資料館の展示。森のホールとかもあります。

 

これラベンダー園を上から見たところ。

6月、7月はラベンダー狩り体験もできるので

私もやりました。取るのに夢中であまり写真撮ってないのです(^^;)

 

温室もありました。とにかく広いので半日はいられると思います。

 

一人だとレストランはまあまあ贅沢なんで、

上がったところでいろいろフードコート風なところがあって

そこで何か買って食べたかな。

でも節約したかったら何か買ってもっていって

外で食べられるのでそのほうがいいかもしれません。

 

基本的に植物観察のために行くのなら

もっとこじんまりした植物園のほうがいいかも。

なんせ観光地なので。

ただ、ガーデンや香りを楽しみ、神戸満喫したい方には楽しめます。

あとインスタ映えを探している人にも。

 

あとデートスポットにも入ってるのでわりとカップル多めイメージ・・・。

 

あのソファがまさにそのためって感じですね。。

 

しかし行ったことないなら、行ってみると楽しい、キレイ♪

みたいな場所でしょうか。